キャニメーションの森
2006年4月から開設していましたブログ「アニメーションの森」の続編です。デザインの専門学校で一昨年前40周年を迎えたアニメーション学科の学生たちの授業の様子やキャンパスレポート、卒業生の活躍を主に更新しておりますが、その役割はODCのホームページに任せて、ここのところは、プライベートなことをつぶやいています。
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チャップリンの映画にカット割りを学ぶ
- ジャンル : 学問・文化・芸術
- スレッドテーマ : 映像・アニメーション
映像演出論の第2回目
シーンをカットで分断しても映像は成立する
教材に『チャップリンの拳闘』(1915年 『The Champion』)と、『街の灯』(1931年 『City Lights』)を使用。
映画のもっとも映画らしい技法は?カット割り?だということを第1回目の授業で紹介したが、具体的に映画の歴史の中で映画作家たちが、どう進化させてきたかを、チャールズ・チャップリンの作品を教材にして解説
『チャップリンの拳闘』
チャップリンが1914年から映画制作に関わったということは、1915年に制作されたこの作品はチャップリン映画の初期の作品といえる。
また、フランスのリュミエール兄弟によってパリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアンでシネマトグラフによる作品が上映されたのが1895年だから、映画の歴史がスタートして、まだ20年目に制作された作品ということになる。
その、リュミエール兄弟の作品は、『工場の出口』にしても『列車の到着』にしても、カメラは固定され、構図(ショットサイズもアイレベルもアングルも)は変化することなく、ワンシーンワンカットによる撮影で作られた、単に?映像の記録?といったものだった。
その後、シチュエーションやキャラクターの役割が設定されストーリーが感じられるものが登場し始め、1902年に制作された、ジョルジュ・メリエス(仏)の『月世界旅行』を見れば、そのころ制作された作品には、シーン(場面)が変化し、あきらかに物語が存在する?映画?が存在していたことが分かる。
それでも、『月世界旅行』にしても、シーンは変われども、一つのシーンについてはワンカットで構成されたものでしかない。ワンシーンワンカットの連続なのである。
これはまだ、映画が演劇の延長上にある意識で作られており、客席から舞台を眺めて観劇している感覚で撮影されているからだと思われる。
チャップリンの初期の映画も同じく、チャップリンの動作の面白さや出来事の紹介が演出の基本にあり、画面作りはフルショットを中心にしたサイズで構成されている。
ただ、リュミエール兄弟やメリエスのころの作品とあきらかに違うのは、シーンを分断していくつかのカットが挿入されていたり、本来ひとつの画面であったものをショットサイズを変えて?カット割り?して見せている方法が使われている。
このころのどの映画を見ても、極端なアップショットは見かけない。
レンズの焦点距離や被写界深度の関係があったのかもしれないが、観劇している客席の観客の視点から脱出できていないということがあるのかもしれない。
犬のクローズアップが使われているが、この場合も、?イヌのフルショット?という意識で使われたのではないだろうか?
思っている以上に?カット割り?されて映画は構成されているが、ひとつひとつの画面の構図(ショットサイズ、カメラポジションとアングル)は先週の教材で使用した漫画、長谷川町子の『サザエさん』や、田河水泡の『のらくろ』と共通で、人物を中心にとらえたフルショット。アイレベルは通常の人間の視点で極端に高かったり低かったりはなく、アングルはほぼ水平で、これも極端な俯瞰やアオリといった画面はない。
どの画面も横構図である。
縦構図はほとんど出てこない。
ましてや、手前にある何か越しに向こうのものを写すといったような?ナメ構図?は一切使われていない。
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【本文中の『工場の出口』『列車の到着』『月世界旅行』をクリックすれば、YouTobeを使って作品を見ることが可能です】
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『街の灯』
『チャップリンの拳闘』から16年。
チャップリンの?カット割り?は、正真正銘の映画になっている。
制作された1931年は、すでにアメリカのワーナー・ ブラザーズからトーキー映画『ジャズ・シンガー』(The Jazz Singer)が発表され、ハリウッドを中心に映画はトーキーの時代へと移っていくが、チャップリンはそんなトーキーに対して「彫刻に着色するようなものだ」と言って拒否し、サイレント映画にこだわって制作を続ける。
そのことが、スクリーンの中の演技や、映画の見せ方を磨いていき、素晴らしいカット割りやモンタージュを生むことになったのだと思う。
まずはトップシーンから。
最初のカットは、街を見わたすロングショットから。
舞台となる街の様子が説明される。
摩天楼。記念碑の除幕式に集まる大勢の人たち。
演説を行う紳士にカメラは寄っていく。
ワンシーンワンカットを中心に、芝居や演技に注目させる長いカットがあたりまえのように見始めると、カットの細かさにびっくりする。
この場合、現代の映画技法であれば、ズーム・インを使って見せてしまうであろう。
と言っても、この時代にはまだズームレンズは登場していない。
ズームに代わり、カットで割って見せるという方法でしかなかったのだと思う。
しかし、カットで区切って見せることで、テンポのよいリズムがあり、映像が心地よい。
当たり前のように
カット割りされている技法だが、『チャップリンの拳闘』では、まだ使われていなかったモンタージュを、この『街の灯』で見ることができる。
映画の歴史が
始まったばかりのころの画面の見せ方は、舞台の演劇の芝居と観客の関係である。
カメラは撮影の対象となる画面(人物と背景)を、演劇の舞台と俳優の演技を記録するように撮る。
だから、
観客はこちら側、舞台は向こう側。
カメラが舞台に上がることはないし、ましてや、その舞台の上で向きを変えるという発想はない。
独立した視点として自由ではない。
しかし、『街の灯』では、カット1とカット2のつながりのようにカメラのポジションが変わり、180度アングルが変わる?ドンデン?が行われている。
演劇の観客の視点だったカメラから、映画のカメラの視点に変わっている。
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[T4] チャップリン『街の灯』ラスト・シーンでの“発見”
- 2010-10-28
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